第121回(平成17年度第24回)東文研セミナーのご案内(2月15日)
アルジャイ石窟の興亡から見たモンゴルの仏教信仰の歴史的変遷
日 時 平成18年2月15日(水)15時〜18時
会 場 東京大学東洋文化研究所3階第一会議室
報告者 楊海英 静岡大学人文学部助教授
連絡・照会先 永ノ尾信悟、東洋文化研究所 Tel 03−5841−5867
E-mail seino@ioc.u-tokyo.ac.jp
要旨
アルジャイ石窟の興亡から見たモンゴルの仏教信仰の歴史的変遷
静岡大学人文学部助教授 楊海英
Arjai Grotto― the Rise and Fall of Buddhism in Mongolia
Shizuoka University, Yang Haiying
中国内モンゴル自治区にあるアルジャイ石窟(現在、中国の重要文化財)が注目されるようになってから、約15年が経った。この間、さまざまな角度からの研究も漸く軌道にのってきた。石窟内に書かれたウイグル文字モンゴル語榜題の研究をはじめ、石窟寺院の歴史に関しても、部分的ではあるが、見えてきたものがある。
アメリカに亡命した第七世ディルワ・ホトクトの回想とモンゴル語古文書の記録、それに民間伝承等によると、歴代ディルワ・ホトクトが一時、アルジャイ石窟寺院を主宰していた。ディルワ・ホトクトがアルジャイ石窟にいたころ、石窟寺院はバンチン・ジョーと呼ばれていたことが明らかになった。その後、バンチン・ジョーは恐らく康煕年間にアルジャイ石窟から黄河以北にあるダラト旗の領内に移った。ディルワ・ホトクトは乾隆年間に更に北上し、漠北にナルバンチン寺領を形成し、20世紀初頭まで繁栄した。
ディルワ・ホトクトはカギュ派の系統に属する。彼らがいつごろからアルジャイ石窟寺院を拠点に活動するようになったかは、現時点ではまだはっきり分かっていない。ただし、カギュ派は西夏王国領内で積極的に活動し、モンゴル帝国とも緊密な政治的関係を結んでいた時期がある。そのような歴史から考えると、アルジャイ石窟の歴史も古くからカギュ派と関連していた可能性がある。
後世に入って、アルジャイ石窟が衰退に追い込まれたのも、ダライ・ラマのゲルク派とカギュ派との抗争、そしてカギュ派が敗れたことと無関係ではなかろう。
参考文献
楊海英 2005 『アルジャイ石窟1号窟出土モンゴル語古文書に関する歴史人類学的研究』(科研報告書 課題番号: 15520514)。
巴図吉日嘎拉 楊海英 2005 『阿爾塞石窟―成吉思汗的仏教記念堂興衰史』 風響社。