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2005年 11月 25日
「“内外別アリ” 北京留学の頃」(東京大学教養学部AIKOM委員会『AIKOM 10周年記念アルバムⅢ 教員エッセイ集 私と留学』,2005年10月,30-34頁)より抜粋。
****************** 文化相対主義 話をバスにもどそう。留学生は「ほんもの」のワイビン(外賓)のように,タクシーや貸し切りバスに乗ることはままならず,大学とダウンタウン間の移動には,路線バスを利用するよりなかった(留学の最終段階になって,随時停車のミニバスが現れてずいぶん便利になったが)。 混雑が常態のバスに乗るのは,しかし楽ではなかった。車掌がわざわざ「下車が先」と声を上げなければならないのは,それに従わぬ勇猛果敢な老百姓(しょみん)がいるからで,人がドアに殺到し,乗り降りを同時に敢行する「戦闘」が落ち着くのを待っていたら,いきなり発車オーライで,バスは彼方にということが一再ならずあった。 めでたく車上の客となればなったで,こちらは容貌外見からして「顕在的」ワイビンというわけにもいかず,労働者優先のこの国では,運転手の次に偉いはずの車掌さんに怒鳴られるようにして切符を買い,二つ目ぐらい手前の駅から,下車する際の「戦闘」にそなえて,改めて深呼吸しなければならなかった。 あとで,まわりの中国人に聞くと,窓口に並ぶにもバスに乗るにも,整列するという身体規範が希薄なのは,「文化的後進性」の現れだとか,文化大革命による秩序破壊の産物だとか,「解放」以来人口が急増したからだとか,若者への教育の欠如だとか,異論異説があり,留学生仲間でも,割り込みされた腹立ちまぎれに,このテーマで議論することもあったが,どの説が正しいのか,未だに判然としない。昨今の北京や上海での「文明」的「秩序」の展開ぶりからすると,いずれの説にも説得力がありそうだが,こうした「自私自利(じぶんかって)」的ふるまいは,中国の専売特許というわけではない。環境次第では,誰でも同じ経験をしているはずだ。要するに,これは「現代化」した都市の人間管理システムに飼い慣らされているか否かの問題にすぎず,人混みで先を争う「荒ぶる力」は,都市では一部潜行し,一部は非都市セクターに生息しているのかもしれない。 閑話休題。当時は知識人の間で,「国民性」や「中国文化」の問題が真剣に討議されている最中であった。中国の経済的政治的病根は,文化や国民性に問題があるからではないのか,「啓蒙」と「発展」に焦燥感と使命感を抱くインテリたちの煩悶の声だったのだろうか。そうした声は,まもなく文化論ブーム(文化熱)といわれる政治=文化運動に発展していった。それが政治運動であることがわかった(1989年天安門事件もこの運動と密接なつながりがあった)のは,ずいぶん後のことである。 ただ,大インテリたちのそうした悩みとは別に,バスの中は中国社会の一つの断面図であるという点で,中国文化論の立派な教室であった。身障者や老人に進んで席を譲ろうとしない人々も,ひとたび赤ちゃんを抱える姿を眼にするや,間髪を入れずに席を立つ。大股広げてふんぞり返っている,いかつい「街のあんちゃん」然とした小伙子(わかもの)ですら,決して例外ではなかった。 二度目の北京長期滞在のとき,というと留学から帰って6年ほどたった1990年のことだが,3歳の長男を連れて,バスに乗ることがあった。子どもを抱えているのが母親であろうと,父親であろうと,席を譲られなかったという記憶がない。中には相好をくずして話しかけてくる人もいる。隣にたつ老人ではなく,若い父親であった自分のほうに優先権が与えられ,かえって気まずい思いをすることもしばしばであった。 一人っ子政策の影響もあったのだろう。しかし,子連れを見ると反射的に体が動くのは,教育やイデオロギーの効果ではない。儒教とも関係ないと思う。例えば,老人が尊重されているかといえば,必ずしもそうではないし,男女の別,長幼の序の教えはそれこそ「現代化」の中で空洞化していた。孔子の教えは,「礼」がいかに社会に浸透しないかの嘆きの痕跡として読むべきではないか,そんなシニカルな感想が,アナーキーでありながら妙な活力に富んだ現場社会を見ているうちに,ふと浮かんできたりもした。 いかなる社会でもモラルはある。違うのはモラルの型だけだ。バスが動き,人を運んでいるのも,そこには無数の人間交際のモラルが前提されているからだろう。小さな子どもに対する「保護」のモラルが,どこから来たのかは知らない。都市社会の「農村」的なる部分を代表していたのかもしれない。しかし,そのモラルの働き方は,たしかに社会を支える秩序の核を感知せしめるだけの手ごたえをもっていた。無秩序の中の秩序。異国に暮らす留学生はこうしてバスの中で,文化によるモラルの違いという,文化相対主義の初歩的レッスンを,知らず知らずの間に受けていたのである。(後略)
by jindaizhongguo
| 2005-11-25 08:46
| 課外活動
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