会期:2011年6月11日(土)~9月19日(月・祝)
場所:
渋沢史料館2階 常設展示室書画コーナー
辛亥革命100周年を記念して、渋沢栄一と孫文との交流を中心に、日中民間経済外交の一端をご紹介します。
みどころ展示構成:
1 出会い
辛亥革命勃発後の1912年(明治45)1月に、孫文を臨時大総統とする中華民国樹立が宣言されました。その翌年の1913年(大正2)2月14日夜、渋沢栄一は、東京・新橋停車場に降り立った孫文と初めて出会います。そして、孫文が帰国する3月までの約3週間、栄一は各種団体や実業家が主催する孫文歓迎会に出席をしたり、孫文と直接面会したりする中で、日中経済提携、日中合弁会社設立などについての協議をおこなうなど、交流を繰り広げます。
*ここでは、辛亥革命に関係した人物の書画や、栄一と孫文のはじめての交流を物語る関係資料などを紹介します。
2 革命のなかでの日中経済提携の模索
中国の国内情勢が混迷する中、1913年(大正2)8月、栄一は孫文との提携のもとで中国興業株式会社を創立。しかし、その後、孫文は第二革命に敗北して日本に亡命。袁世凱が中華民国大総統に就任、日本をはじめ13ヶ国が承認します。そうしたなか、栄一は、孫文に相談します。孫文から「中国の実業開発を第一に考えてほしい」との返事を得て、孫文と政治上敵対する袁世凱との提携をすすめ、1914年(大正3)に会社を改造、社名も中日実業株式会社となりました。
*ここでは、当該期の革命運動関係人物の書画、中国興業株式会社、日中実業株式会社関係資料などを紹介します。
3 別れ ~日中経済連結を切望す~
1924年(大正13)9月の第二次奉直戦争をきっかけに、中国政局が激動し、11月に孫文は、中国全国の平和統一を目的に北京に向けて北上を開始します。その途中、神戸に来訪し、日中提携を訴える「大アジア主義」講演を行いました。その際、栄一に神戸来訪を願いましたが、病気の栄一は会いに行くことができず、孫文は日本をあとにします。その後、孫文は北京に到着し、中国国民会議召集に向けて活動を展開するさなか、病に倒れます。栄一も非常に心配しますが、1925年(大正14)3月12日に孫文は北京で永眠します。
*ここでは、当該期の中国国内情報関係資料、栄一と孫文の間で取り交わした電報などを紹介します。
主な展示資料:
・孫文より渋沢栄一宛電報 1924年(大正13)12月1日
・渋沢栄一より孫文宛電報 1924年(大正13)12月2日
・孫文の同志・黄興書「論語廿篇伝泗水」1916年(大正5)6月
・辛亥革命の要因となった鉄道国有化を進めた清国官僚・盛宣懐書「月円人寿」