村田雄二郎「6月のとある日,駒場キャンパス,某研究室にて──外貨兌換券をめぐる教師と学生の会話」(『UP』2009年9月号より)
(前略)
教員:いや,別に全部やれといっているわけじゃないんだ。兌換券については,もう時効だと思うから言うけれど,大都市の大通りだとか,観光地の出入り口に,なんていうんだろう,ダフ屋というのともちがう,両替の客引きがいるんだよ。ブラック・マーケットの世界だね。当然,人民元に対して兌換券は外貨の裏づけがあるだけに強くて,相場ができるんだ。一番いいときで,1:2という話を聞いたことがあるけど,僕が換えたのはずっと低いレートだね。
学生:その話は先輩からもいろいろと聞いたことがあります。長期の留学生はいずれにしても人民元を使うことがあるから,円やドルから替えた兌換券を人民元にして,差益をかせいだなんて。でも,そんなブラック・マーケットの実態なんて,まず文字には残らないし,論文には書けませんよね。
教員:そうだねぇ。裏の世界の話だから,ちょっと研究対象にするというわけにはいかないね。でも,いまでも強烈に覚えているんだけど,北京随一の繁華街でケバブを一本買ったら,言い寄って来たのが,明らかにウイグルの青年だった。外国人に近寄ってはたどたどしい中国語で「換銭(りょうがえ)!換銭!」ってささやくんだよ。いまにして思うんだけど,ケバブを屋台で売る商売と一体だったのかもしれない。もちろん,ウイグル人の専売特許ではなかったけれど,都会にでた無業の青年たちの,手っ取り早い収入源として,兌換券両替の闇仕事があったというわけだ。
学生:なるほど。そうすると,エスニックな問題とつながってくるというわけですね。
教員:いやいや,そういうわけではないんだ。たまたま,僕の印象に強烈に残っている事例として,そういうことがあったということを言いたいんだよ。それに,いまにして思えば,ブラック・マーケットとはいえ,中国全体の外貨流通の規模からすれば,たかがしれた量だったんだろう。都市にでた出稼ぎ青年の糊口しのぎにもなる,そんな事態まで計算に入れての外貨兌換券の制度だったんではないかと思うね。
学生:そこまで中央政府は考えていたんですかねぇ。先生の説だと,逆にさっきの話と矛盾するんではないですか? だって,中央のマクロコントロールが徹底しないのが,改革・開放期中国の問題だったとすれば,兌換券だって,先生のいうようなシナリオが最初からちゃんとできていたってのはおかしいじゃないですか。よく分からないけど,なんかその場しのぎにつくった通貨制度が,結果的に市場経済化にうまくはまったというに過ぎない感じもするんですが。はじめるのも,やめるのも唐突だったし。
教員:そうかもしれないなぁ。当時のことを振り返っても,何か政府が自信をもって政策を遂行しているという感じはしなかったね。改革・開放の「総設計師」鄧小平はさすがに「石橋をたたいても渡らない」人なんていわれていたけれど,全部あとづけかもね。「総設計師」なんか,どこにもいなかったというほうが,この三〇年の変化を見るには説得力がありそうだね。
(後略)