題目:「浙江『兵事雑誌』にみるベトナム独立運動−作品に描かれたベトナム人表象を中心に−」
発表者:吉川次郎(中央大学等非常勤講師)
要旨:
浙江『兵事雑誌』は1914年に杭州で創刊され、1926年第148期までの発行が確認されている月刊誌である。創刊にあたっては当時、浙江の軍を担っていた朱瑞が深くかかわっており、また長きにわたって浙江軍事編輯処から発行されていたように、軍が運営する公的性格をもった雑誌であった。したがって、その内容も戦術・戦略および戦史を研究した論文や軍事上の知識を紹介する記事、あるいは軍関係の法令・通信などが中心となっている。
しかし、この雑誌にはもう一つの側面があった。それは19世紀後半以来のフランスによる植民地化に対抗するかたちで生まれてきたベトナムの独立運動とのかかわりである。ベトナム独立運動の代表的人物のひとりで、20世紀初頭には日本への大規模な留学運動である「東遊運動」を推進したことでも知られるファン・ボイ・チャウ(潘佩珠、1867-1940)は、『兵事雑誌』が中華民国の成立とともにフランスとの外交的な関係から行き場を失った中国国内の軍関係のベトナム人を受け入れる機関であった旨を回想録に記している(『自判』)。また、実際にチャウ自身も雑誌の執筆者の一人として多くの文章を発表していた。
『兵事雑誌』にはベトナムにまつわる数多くの刻印が残されている。そして、小説や旅行記、随筆、詩などさまざまな文体をとおして浮かび上がって来るのは、雑誌に参加したベトナム人たち自身の姿であり、彼らの履歴としての独立運動の軌跡であった。とりわけ小説においてはベトナムを取り巻くさまざまな状況が設定されており、たとえば同期入隊の少年がある日忽然と姿を消し、残された一通の手紙から少年が祖国の独立の回復を目指すベトナム人であったことを知る短編小説「亡国の英雄」や、ベトナムを旅する途中で列車に同乗した女性がかつて独立運動家たちによって記された著作の一節を次々と諳んじてみせる旅行小説「南遊鴻爪録」、東遊運動にも参加した学生の半生を描く大河小説「万里逋逃記」など、独立運動にかかわるきわめて多彩なベトナム人群像が描かれている。
今回の発表では、『兵事雑誌』のいくつかの作品を紹介しながら、20世紀前半の中国で表現されたベトナム人表象について初歩的な分析を試みたい。また、あわせて�中国とベトナムの近代における関係性、�当時の中国在住ベトナム人にとって漢字文化圏が持った意味、�「思想連鎖」の観点を含めた知識人ネットワークの問題、といった諸点についても触れられればと考えている。