今日の『朝日新聞』(東京版)12面「時流自論」欄に掲載された王敏法政大学教授のエッセイに対する感想を一言。
「時務報」が「事務報」となっている類の誤記はさておき,日清修好条規の締結を1877年としているのは,あまりに粗雑な歴史認識といわざるを得ない。案ずるに,初代公使何如璋一行の赴任年と混同したのだろうが,日中友好の先達として,文中黄遵憲が特筆大書されるだけに,単なるミスではすまない問題性が潜んでいるように感じられる。
たしかに,黄遵憲は日本人の生活風俗を愛して『日本雑事詩』を書き,またすぐれた日本研究書『日本国志』を著した。しかし,黄遵憲の日本滞在は,いわゆる朝鮮問題をめぐる列強の確執が次第に表面化する時期に当たっており,何如璋が琉球処分に対して対日強硬策を唱え,また朝鮮をめぐる綱引きを行うための理論武装の書として,黄遵憲に『朝鮮策略』を書かせた経緯はよく知られている。
だからといって,黄もまた反日愛国の士であったというつもりはさらさら無い。かれが日本を愛し,理解しようとつとめたことは動かぬ事実である。けれども,最初は琉球問題,ついで朝鮮問題で緊迫する国際情勢の中で,黄遵憲の言行も存在したことを視野に入れず,近代日中文化交流の佳話だけで日本時代のかれを語るのは,逆に「政治の対立」に苦慮したその言説のリアリティを見失うことになりはしまいか。
私は常々,黄遵憲の語られ方,今日的評価において,日中間に大きな「歴史認識」の差があることを感じてきた。中国のそれは変法派知識人・開明的外交官として極めて高いものがあり,またかれの先駆的日本研究も評価されているが,『朝鮮策略』の著者として,かれが示した透徹した国際認識もまた注目されはじめている。
黄遵憲を引き合いに出すのであれば,まずそのあたりの温度差から語り始めることこそ「お互いに相手の文化を尊重し」あうことの前提になると思うのだが。(村田雄二郎)