『孫文研究』第45号,2009年3月刊
特集「孫文2008」
孫文へのまなざし 飯倉照平
孫文と上海金融界との関係について 呉景平
地方エリートと民国初年革命党員の広東における社会改造 何文平
孫文の「次植民地」イメージ 潘光哲
論文
章炳麟と支那亡国記念会 孔祥吉・村田雄二郎
(内容一部抜粋)
1902年春,章炳麟が作成した支那亡国記念会宣言書が公表されるや,世間に流布し,大きな反響があった。(中略)馮自由所蔵の「印刷旧稿」は,支那亡国記念会が東京で発布した宣言書とは明らかに異なる。おそらく香港『中国日報』社などが印刷した「印刷旧稿」であるか,あるいは馮自由が旧時の手稿に手を加えたものであろう。それゆえ内容は原文と食い違っているのである。
見たところ,馮自由の公表した「印刷旧稿」にせよ,民国十六年に章炳麟が馮自由に書き贈った「新稿」にせよ,日本外務省外交史料館所蔵の原件とは異なっている。思うに,年月を隔てているので,作者本人ですら記憶の誤りは避けがたかったのだろう。それゆえ,世間に流布している宣言書の文字は,日本の外交文書に収められた原件にしたがって訂正されなくてはならない。
さらに指摘しておきたいのは,日本の外交文書に収められた支那亡国記念会宣言書がきわめて鮮明な印刷物であり,郵送されたビラであるらしいことである。表には二枚の切手が貼られており,二つの差し出しスタンプと一つの受け取りスタンプが押されている。時間と場所は「東京 明治三十五年四月二十日」と標記されており,東京地区の郵便物である。これこそ,「宣言書は各方面に散布された。横浜の『清議報』にも郵送され,梁啓超に託し華僑にも送られ,広く宣伝された。」 と馮自由が述べるところのものである。当時,章炳麟らが学生に活動への参加を促すため幅広く郵送した宣伝文書の一つであろう。・・・